時代の変化 ⑤

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変化してゆく時代

平成5年ごろから社会の成長の鈍化が肌で感じられるようになりました。
百貨店も趣味の分野の縮小が始まり、弊社も次々と3店舗を閉店してゆきます。

趣味の分野は、アイテムが多岐にわたるうえ、一つ一つの分母も小さく、売り上げに繋ががりにくい上、利益率も小さいので、百貨店でなくとも利益の薄いものは、縮小されてしまうのは止む得ないことです。

昭和60年に開店した横浜そごう店は、平成9年に、昭和62年に開店した大宮そごう店は平成11年に、平成1年に開店した多摩そごう店は同6年に退店しました。

横浜そごうの8階のホビーフロアの中でも専有面積の最も大きなテナントは、大手文房具メーカーの子会社でした。
フロアの代表的顔であり、顧客は、その店舗のファン達でした。

弊社がコットンショップを開店した時、生地を販売するテナントはこの大手しかなかったのですが、途中で著名なパッチワーカーが大手生地屋のコーディネーターとして参入し、三つ巴の競争となりました。

同業3社の中で、弊社の会社規模は一番の弱小。構造改革として当時進められていたフロアの大規模な編成替えで、売り場面積はかなり縮小され、弊社のショップはメイン通路から外れました。

しかし、弊社はしっかりした固定客と、仕入れには自信がありましたから、売り上げを落とすことはありませんでした。
けれど、ここから、よるべのない、弱小企業の運命を散々味わうことになりました。

先も書きましたが、弊社の顧客は洗練された、個性的な方々ばかりでしたから、普通の商品では満足していただけません。
また、私は絵を描くことが趣味でしたから、色には多少の自信があり、かなり特徴的な生地が店頭に並んでおりました。

ところが、ところが、何と、何と!!
弊社が仕入れた商品を、そっくりそのまま仕入れ始めたのです。
新しい商品を店頭に出すと、ライバルの店の店長がそれを調べ、三日後には全く同じ商品が、店頭に陳列されたのです。
スタッフが聞いたところによれば、本社指令で、「弊社が仕入れたものをすべて入れよ」ということだったようです。

私は、仕入れ問屋の社長に何とかならないかと訴えましたが、なんともすることができませんでした。
仕入れの額が違うのです。

当時、弊社は3店舗。ライバル会社は吉祥寺に本店を構え、全国展開する大手でした。
こればかりではありません。
あろうことか、弊社の宝である優秀な店長まで引き抜こうとしていました。
自分の無力さ、弱小企業のむなしさを思い知らされた、つらい思い出です。

笑える噂もありました。
著名なコーディネーターの彼女の夫も有名な軍団に属する芸能人でした。
その軍団が応援に、横浜そごうを訪れると、館内放送が流れ、館内におられるお客様が、一斉に集まってくるのです。
フロアは賑やかになりますが、興味のないお客様には随分と迷惑なことでした。
そんな彼女が帰るときは、店長はじめ、店の幹部が最敬礼でお見送りをするという、嘘のような、誠のような話が流布されていました。

脳みその最後の一滴まで

いよいよ横浜から、本当に追い出される時がやってきました。
時代の流れで、ますますホビーフロアの縮小が始まります。
弊社に与えられた床面積は2坪。これは退店しろ!という百貨店の意思と受け取りました。
すでに、この百貨店で一生懸命に働く意思はなくなっていましたが、この時、怒りに変わりました。
「何が何でも出てゆくものか!・・・」
しかし、2坪では何もできません。
弱気と怒りが絞殺する毎日、毎晩でした。

「脳みその、最後の一滴まで考えつくせ!」
そんな私に同情することもなく、事の成り行きを冷静に見ていてくださる方がおられたことは、私の最後の闘争心のよりどころでした。

そして、ひらめいたことを実行したのです。
パッチワークはすでに最盛期を過ぎていました。
教室展開も下火になり、商品の提供さえできれば成熟した手芸は一人歩きします。

私は店内の全ての生地をカットクロスにすることを決めました。
スタッフ総出で、すべての生地をハンカチ程度の大きさにカットしました。多分万単位の数量になったと思います。
店舗に3~4丁あった、ステンレス製の裁ちばさみは、あっという間に切れなくなりました。

けれど、そうした店もすぐに限界が来ました。
カットクロスだけでは、戦うすべがありません。

平成9年、退店しました。
最後に横浜そごうを出るとき、「やっと終わった・・・」という、心の平穏がよみがえってくるのを感じていました。

大宮店も決して、納得して閉店したわけではありません。
すでに、そごうグループは倒産していました。

フロアの構成は横浜店のミニ版です。
ここでもフロアの顔は、大手文房具メーカーの子会社でしたが、フランチャイズ1号店でした。
つまり元社員がオーナー店長になったわけです。

しかし、あることをきっかけに関係は険悪になってしまいました。

このオーナーの不満は本部で決められた商品を、高値で買わねばならないこと、他の商品の仕入れは許されないこと。金銭的な支援をしてくれないことなど、さんざん愚痴を聞かされていましたが、業界をよくご存じで、私は尊敬していました。

このオーナーが、他の商品を仕入れ始めれば、弊社と競合しますが、そんなことはささいなことでした。
横浜ではそれ以上のことがありましたから・・・

そごう倒産後の混乱、ホビーフロアの縮小で、またしても弊社は存続できないほどの小さなスペースしかあたえられませんでした。

腹を立てても始まりません。
脳みその最後の一滴まで考え抜き、什器の工夫で乗り切っていました。

横浜も大宮も売上が悪いのであれば、仕方がありませんが、実績を上げているのになぜか・・・
しかし、ある情報を得て、いずれ最悪なことが起きるであろうことは覚悟していました。

当時、フロアを担当する部長が、店長となりましたが、残念なことに私は、その方との意思の疎通をはかることができませんでした。

ある日、店長室に呼ばれると、開口一番「意地をはるな」・・・意地を張らずにさっさと退店しろ・・・商売は意地だけではできません。
「この人正気かな」と思いました。

しかし、その一言ですべてを了解し、即座に、期末を待たずに、その月末に退店を宣言しました。意地でした。
もちろん、そこに行き着くまでの伏線はありますが、まだ文字にしてしまうには、生々しすぎると思うので、もしチャンスがあれば次にいたしましょう。

多摩そごうも決して、納得して退店したわけではありません。
今流で言えば、パワハラ、セクハラの類です。
私に向けられた言葉は「お宅のような会社は、いつでも追い出すことができる!」です。

この時代、弱小な会社、ましてや女が、モノ言うことは「楯突いた」と、とられてしまうようでした。

楯突いたことは今まで、一度もありません。弊社の立場を述べ、私見を申し上げることが生意気に見えたのかもしれません。当時、私と弊社を取り巻く環境はこんなものでした。

私と弊社を育て、守ってくださった方々は、倒産によって、ちりじりになっていました。
企業は、それを経営する人間力によって、こうも様変わりしてしまうのか・・・
激流に流され続けた十数年でした。

2本の柱の1本を10数年足らずで失ってしまいましたが、内心はほっとしていました。

この頃になると、会社は設立から数年を経ていました
経営は、かなり安定していましたが、私の日常は設立当時より、さらにハードな毎日になっていました。

下りて、上がる

3店舗が業績を上げている時でも、私はイベントの拡張に次ぐ拡張で、何かに取りつかれたように突走しっていました。
ろくに会社にいないのですから、内政は推して知るべきでしょう。
何でも一人で決めて、一人で動く。
仕事もしない、面倒くさいスタッフなど不要でした。

OL時代に、学んだことは、マイナスの感情、すなわち自分の不機嫌な態度を持ち場に持ち込んではならない。
たとえ上司が違っていたとしても、その場は引き下がること。
封建的かもしれませんが、私は気に入っています。

私が最も苦手なのは、ボディランゲージです。
鈍い上に、気が小さいせいもあり、面倒くさくて、いちいち理由など聞いていられない。
大企業なら人事異動もあるでしょうが、零細家業の弊社では、やめていただくより仕方がないのです。
実際、辞めてゆくように仕向けたこともあります。

取引先に言われたことがありました。
新入社員の紹介をした後で「もったいないから、名刺なんて作らないほうがいいんじゃないか。次に来るときはもう辞めていないんだから!」
笑い事ではありません。本当にそうだったのですから・・・

多くのパートさんの面接もしました。
「できることはやります」
「ん? 仕事って、できないことを、できるようにするのが仕事じゃないの?」

これじゃぁ、うまくゆくわけありませんよね・・・
かみ合わないから、私にストレスが溜まります。
そのうち、頼むこと自体が間違いなのだと悟ります。
招き猫よりずっと良いではないか・・・と自分に言い聞かせるのです。

こんなことでしたから、いつでも一人。何でも一人。もちろんご飯も一人。
当てにしていると腹が立つのですよね・・・だとしたら一人のほうが気楽です。

会社を設立してから20年にもなんならんとしているのに、部下は「0」。
頭数はそれなりありましたが、信頼関係は築けませんでした。

正直、社員やパート達の働かないこと、その狡さに嫌気がさしていました。

そんな私を変えたのが、師の次の一言です。

「階下にいる人を引き上げるには、大変な力がいる。けれど、君がそこまで下りて行って、一緒に上がってきたらどうなの?」

私にできることは、誰にもできるはず!
私は努力したのだから、あなたも努力して!

OL時代、周りは皆そうでした。
試験を経て入社した社員のレベルに、差がなかったからでしょうか。

しかし、零細家業は人集めが難しい。
入社試験も無。環境も、働く人の目的も資質も違います。
こんな簡単なことに気づくのに、随分時間がかかってしましました。

何と闘っていたのか

かなり長い間、私はハンドメイドの作家から怖がられていたそうです。
もっとも、社員も怖かったと言っていました。

私は仕事をする上で、何が欠落していたのだろうか。
文句しか言わない相手を、「面倒くさいと」切り捨てていたのではないだろうか。
自分の言い分を通すために、敵意剥き出しの形相で詰め寄られれば、逃げるが勝ち。
「話してもしょうがない」そんな気持ちが支配していたように思います。

会社内は女性ばかり、仕事の相手も女性ばかり・・・横浜で植え付けられた、集団となった女性たちへの恐怖心が常に真底にありました。
それを回避するのは、近づかないこと、近づけないことでした。

仕事では、文句や不満ではなく、自分の思うところを正しく伝えることは必修です。
そして、正しく返事をうけとることはもっと大切です。

一人では、何事にも限界があり、仕事とは多くの人と人の協力があって始めて動き出すものです。
そんな当たり前のことですが、しみじみ感ずるようになるのは、もっとあとのことでした。

会社を興してからずっと、私は何を恐れ、何と闘ってきたのでしょうか。
さかのぼること40年も前、想像すらしたことのない社長になり、あちこちぶつかり、傷つけ、傷つけられながら、得たものは何だったのでしょうか。
辞めたい! 辞めたい! 思いながら、今日まで続けてきたのは何故なのでしょうか。

趣味で作ったものが百貨店で売れる。そして収入になる。
こんな仕事のスタイルができた時、とても興奮し、新しい世界を作ろうとした思いはいつの間にかどこかへ行ってしまいました。

新しい窓

今では考えられませんが、あの当時、女性の仕事は男性の補助。
それがいやだと思ったことはありません。それでも十分楽しかったし、お茶くみでも満足感がありました。

しかし、意見を言うことはあまり歓迎されませんでした。
それはOL時代でも、小さな会社の社長になってからも変わりません。

自分ではそう思っていませんが、私はかなり、はっきりズケズケと物申すらしいのです。

「トラブルメーカー」
「うるさい、細かい、態度がでかい」
「だから嫁に行けない」

裏でも、表でも言われ放題でした。   余計なお世話!!!

私は無理難題を言うほうではありませんし、言える立場にもありません。
どちらかといえば、建設的な考え方をするほうです。(と自分では思っています)
相手様のメンツをつぶすようなことはした覚えもありません。

しかし、おかしいなと思えば、それがものすごく偉い人でも、率直に聞き直し、私見を述べます。
どうもこれがまずいらしいのです。

医者や弁護士にとどまらず活躍している女性は、あまたいらっしゃるなかで、何の取柄もない女が何か物いうことは、歓迎されないと思っていたのは、ひがみだったのでしょうか?
ハンドメイドの販売は、普通の女性が自分の能力で稼げる、新しく開かれた窓口のような気がしたのです。
しかし、私が思ったようにはなりませんでした。

それから数年、私は手作りの世界から遠ざかります。
蓄光材という新素材の開発にチャレンジし、会社の経営に大きな打撃を与え、再び手作りの世界へ戻ることになるのです。

代表取締役会長
青木 みな子

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