創業・設立・一人の船出 ①

目次

設立したものの超低空飛行

昭和57年5月に創業、その年の12月に法人登記し「株式会社 エステイエイ企画」が千代田区九段南に誕生しました。
通りを挟んで目の前に靖国神社。
始めて歩いた、千鳥ヶ淵の夜桜のトンネルは、異次元の入り口のようでした。

社名の由来は創業者3名の頭文字をとって、いとも簡単に命名しました。

半年もしないうちに「T」が退任し、2年後に会社の柱であった「S」が病に倒れ、復帰することなく他界されました。
残された「A」すなわち私は、おおきな不安を抱えたまま後継しました。

それから38年後、平成30年6月に新社長にバトンタッチし、役目を終えました。
振り返ってみると、常に追い立てられ、必死に戦っていた、怒涛のように過ぎていった日々でした。

設立当時はサラリーマン時代の仕事をそのまま引き継いだ、食品関係のスポンサードで、料理教室の運営が中心でした。
なかでも印象に残っているのは、「デンマーク農産物出荷委員会」というジェトロにちかい仕事の内容で、当時はまだ珍しかった、デンマークのナチュラルチーズの販促イベントです。

「食べていただくのが一番!!」・・・ ということで、1都3県(東京・神奈川・埼玉・千葉)でほぼ18会場を2~3カ月かけて実施していました。
昭和58年から63年までの5年間、年2回関東エリアで、仕事をさせていただいた、この企業のおかげで、弊社は何とか息継ぐことができました。

これを端緒に、昭和60年には、キング醸造の日の出味醂の料理教室を年2回、関東各地区の15~18会場で実施・運営。
昭和61年には旭化成のサランラップを使った料理教室を同様の規模で実施運営させていただきながら、様々な勉強をさせていただきました。

例えば、食品にも地域によって嗜好性があり、チーズなどは典型的な「山の手食品」とか。
サランラップは旭化成の商標登録であり、他社製品とは、機能そのものが違うことだとか。

ただ、年間を通じて安定した収入ではなく、日銭の入らない経営はかなり苦しいもので、先行きの不安を感じていました。
すでに2年近くも無給に近い状態が続いていました。

あれこれと懐かしいイベントの思い出

料理教室

楽しいことも辛いこともある中で、決して忘れられないこともありました。

デンマークチーズの講習会でした。
インフラ大手、T社が経営している銀座の料理教室でのことです。
会場の担当者と、十分打合せしたはずでしたが、当日の朝、包丁と布巾が用意されていなかったのです。

料理講習会です。
事前に食材も配送済みです。
お客様も80名余、講習会の開始を待っておられました。

なぜだー!!

困惑して理由を尋ねた私は愕然としました。
自分が犯してしまったかもしれない失態に、青くなっていた次の瞬間、怒りで、真っ赤になっていたに違いありません。

打ち合わせの時に、包丁と布巾を借りたいという話は、出なかったというのです。
銀座会場は初めてでしたが、このグループ会社の他の会場、例えば、成城・鎌倉・目黒どの会場もすべて、包丁と布巾は用意されていたと、怒りを抑えて抗議しました。

「ここは違います。」

とりつく暇もありません。
ならば、なぜ打ち合わせの時に聞いてくれなかったのでしょうか?
怒り心頭でしたが、どうしようもありません。
とにかく、平身低頭で拝みこみ、包丁だけは借りましたが、布巾は頑としてダメでした。

幸い、講師はマイ包丁持参で問題はなかったので、代金を支払う約束で、とりあえず講師が使う分だけ、新品の布巾を用意してもらいました。

ともかく講師がモンストレーションをしている間に、お客様の布巾を用意しなければなりません。
幸い銀座という土地柄、百貨店はたくさんあります。
開店を待って、晒2~3反を買い、カッターで必死になって切りました。(布を切るハサミはないということなので・・)

正直、この大会社で働く女性スタッフたちは、どの会場も無表情で事務的でした。
平易な言葉で言えば、いじわるでした。

素晴らしい調理技術を身に着け、沢山のおいしい料理で、みんなを喜ばせることができるのに、もったいないと思っていました。

イベント終了後、食材の残りは持ち帰ることはせず、教室に置いてきます。
この料理教室に通ってくる、別の消費者に、ナチュラルチーズのおいしさを知っていただきたいというスポンサーの意向でした。
当時、まだ珍しかったナチュラルチーズはとても喜ばれていましたが、この会場だけは、受けつけませんでした。

教訓  女性ばかりが担当者との交渉には、念には念を!!!

貸し倒れ

今となれば、こんなことは「やれ やれ・・・」で済みますが、会社の存続にかかわる事件が起きました。

新しく代理店になった会社の代表が、お金を持ち逃げしてしまったのです。

当初、このチーズを使ったイベントは、ラジオ局Nの下請け業務でした。
代理店は某大手銀行の印刷物を主に扱うF社です。

このF社のイベント担当部長、T氏が独立、「オフィス-T」を設立したことで、お金の流れが変わります。
それまでN局からの支払われていたものが、オフィス-Tに変わりました
当然、請求書はオフィスーTに送ります。

ところが、彼は支払いもせず、姿をくらましてしまいました。

弊社も会社を作って、まだヨチヨチ歩きです。
そのうえ、信用がないので、仕掛経費のすべてが先払いです。
すでに600万円ぐらいは支払っていました。
1000万円の収入がなければ、残りの未払い分も払えません。

会社はつぶれる寸前でした。
チーズの代金を払ってしまったら、電話代が払えない。
営業に出かけようにも電車賃も無いのです。
私は母のがま口から、彼女に気付かれない程度に、小銭を無断で借りる毎日でした。

結果は「貸し倒れ」という経理処理で終了。

あれから40年後、私はいま、子会社の社長にしていた元社員が、パチンコに使い込んだお金を回収すべく悪戦苦闘しています。
お金を盗むような奴はみんな似ていて、この男も姿をくらましています。

手作り販売

新宿駅東口にあった、新宿ステーションビル。(現在のルミネエスト新宿)
昭和59年、この会社が初めて私の企画にお金を出してくださいました。
大幅に削られた見積書でしたが、天にも昇る心地で興奮したことを忘れることはできません。

弊社は少しでも売り上げが欲しくて、昭和61年ごろから、この駅ビルの9階、食堂街のあるイベント広場で1年間に、4~5回、主婦たちの手づくり作品を販売していました。

駅ビルの食堂街ですから、夜ともなると酔客が多く、酔いのまわった男性客は気前の良い上客でした。
しかし、朝10時から、夜11時までの長時間の拘束はいくら若くても、体には堪えます。

中でも嫌だったのは、一人で薄暗い地下3階にある倉庫へ用度品を取りに行く事でした。
倉庫に入るときは、ドアを2~3発、足蹴りをして、中にいるネズミを脅します。

そうでもしなければ、ドアを開けた途端、足元にいる何匹ものネズミに襲われて、発狂しかねません。

もし、このドアが急に閉まったら(中からは開きません)、次に誰かが来るまで、ネズミに襲われて私は、白骨死体になっているのではないかと、本当に恐怖でした。

お弁当屋さん

笑い話ですが、母に何をしているのかと聞かれ、「イベント屋」と答えたのでしょう。
それが母には「オベント」と聞こえたのか、かなりの期間、私は「弁当屋」でした。
ですから、朝早くて夜遅いのも、母なりに納得していたようでした。

百貨店への出店

会社が何とか軌道に乗るようになったのは、昭和60年10月、開店したばかりのそごう横浜店(現在のそごう・西部百貨店 横浜店)に18坪のコットンショップを開店してからです。

それまでOLしか経験のない私にとって、これは人生最大の難所でした。
開店から1年、元旦以外、本当に一日も休むことできませんでした。
正月に実家に帰っていた姉の、生まれたばかりの子供の顔を見て、初めて緊張が緩むのを感じました。

朝早く家を出て、深夜バスに乗る毎日。
お金もないので、いつも両手に大荷物を抱えながら移動していました。

バスを降りてから、ハイヒールの靴音と共に、両手に持った大きな紙袋の「ボガスカ、ボガスカ」と響く物音が、遠くから近づいてくることで、母は私の帰宅を知ったようでした。

健康でよかった。我ながら本当によく動けたものです。

人嫌い、特に女性嫌いになったのもこのころからですね(笑い)

横浜そごうで働いた12年間に、良い思い出は全くありません。

あろうことか、家庭科嫌いで、ハサミもろくに持ったことのない私が、生地屋の責任者になったのですから。
何をやっても百貨店の人は気に入らず、常に怒鳴られていました。
 
そうなれば私が雇っているパートのおばさん(失礼)たちも私を馬鹿にして、言うことは聞いてくれませんよね。

彼女たちからも、精神的に小突き回される毎日でした。
「あなたは、家庭を持っていないから、人の気持ちがわからない!」
「好きな時に休めるからパートなんじゃない。社長のあなたがすべてやるべきじゃないか」
これほんと!
彼女たちは、自分の時間や予定が最優先事項でした。

当時、朝6時ごろにかかってくる電話は恐怖でした。
「今日、予定ができて出社できません・・・」
あの頃はバブル期で、パートが引っ張りだこだったのです。

弊社も毎週、毎週パート募集の広告を出していました。
今でも忘れません。「とらばーゆ」

四面楚歌

大企業の社員であること。
社員はどれだけ会社に守られているか・・・
生まれたばかりの、ちっぽけな会社の未熟な社長となった私は、不満を口に出し、上司の悪口をつまみに、お酒を飲んでいたOL時代が、本当に恵まれていたことを実感しました。

四面楚歌とも言うべき、横浜そごうでの12年間は、息苦しい毎日でした。
私の上司は百貨店の社員たちでした。新入社員ですら偉い方なのです。
些細なことで衆人の前で叱責される私は、判断の基準が失われ、自信喪失になってゆきました。

絶対忘れられない、こんなこともありました。

皆さんはご存じでしょうか。
パッチワークは小切れ(だいたい大判のハンカチ大)が主役です。大きな生地をわざわざ、小さく切り「カットクロス」として販売していました。

ある時、これをたたんでいると、売り場の係長がやってくるなり「クズ屋をやってんじゃねぇ!」 とわめくと、たたみかけていたカットクロスを床に払い落としていきました。

拾いながら、恥ずかしさと、怒りと、悲しさで、この場で息絶えてしまいたいと願ったほどです。
見ているだけで、手伝う人も誰もいません。
想像してみてください。丸の内にミニスカートで、さっそうと通うOLだったんですよ! 私!(笑)

今でこそ、パッチワークは誰もが知っている手芸の代表格ですが、当時はまだまだ発展途上でした。
その上司はパッチワークを知らなかったのかもしれません。

大企業のOLしか経験のない私に、百貨店の常識は、荒っぽく非常識なものとしかおもえませんでした。
聞くことすら許されません。
「自分で考えろ!!」

毎日が同様の繰り返しで、あれから何十年もたった今でも、横浜駅に降りると、動悸が激しくなります。

でも、パッチワークを店の切り口にしたことにまちがいはありませんでした。

さて、そうは思っても軌道に乗るのは3~4カ月もあとからのことです。

店の運営や、目指す方向は見えていたのですが、生地をはじめとする販売物の、仕入先を全く知りません。
また、発注しても、信用がないので、入金が確認されるまで出荷してもらえないので、常に品不足でした。

生地は10M注文しても、10Mで入荷することはありません。10.2Mであったり、9.5Mであったりします。
つまり、出荷する段階になって、初めて請求金額がわかるのです。
「いくらになります」とういう連絡をもらい、それから送金するわけですからもどかしいものです。

紹介された問屋をはじめて訪ねた時です。
生まれて初めて、現金300万円をバックの中に入れていました。
けれど誰が見ても素人です。結局相手にしてもらえず、すごすご帰りました。
「素人が、簡単に手を出せるものじゃない」の一言でした。

ワーキングテーブル

店舗の一角に、5~6人が座れる程度の、ワーキングテーブルを用意していたのですが、
これがまた怒られる原因でした。
私はここで、講習会をするつもりでしたが、開店してすぐに生徒は集まりません。
1カ月ぐらいは、何もない真っ白なテーブルが目立っていました。
「商品を乗せろ!何やってんだ!」

こんなことも原因で、百貨店のいら立ちが、激しい言葉になって私にぶつかっていたのかもしれません。

いや、その前に、弊社は百貨店が出店を切望した会社ではない「招かれざる客」だったことが最大原因だと思っています。
部長に面と向かって言われた時は、何と答えてよいか途方にくれました。
「お宅を入れる気はなかった。」

「坊主にくけりゃ、袈裟まで憎い」
また、はっきりものを言ってしまう私にたいしても、「生意気だ」という思いがあったのかもしれません。
「ここで泣けば可愛げがある・・・」係長の言葉でした。

しかし、ショップは大成功でした。
そしてこれがまた次のいじめにつながってゆきます。
後ろ盾のない弊社は、虐めやすかったのでしょう。

丁寧に、いつも変わらず

素敵な出会いもありました。
でなければ、絶望のまま人生が終わったと思います。
少なくとも現在の私はありません。

開店から1年後、ワークテーブルに通ってくださった生徒たちの、作品展を開きました。
準備の夜、非常灯だけの薄暗闇の中で作業をしていると、ノータイでシャツ姿の小柄な男性が巡回してきました。

こんな暗闇の中、一人で何をしているのかと聞かれたので、生徒(客)の習作展の準備をしていると話しました。
当時、店内ではほぼ毎日、1回2時間の講習会を開いていて、かなり盛況でした。

翌朝、開店の2時間以上前、まだ薄暗い中、昨夜の警備員がまた巡回に来ました。

開店後、再び巡回に来た時、彼はきちんとした身なりの紳士でした。
同行していた社員から、その方が店次長だと紹介されました。
(後にその方は専務になられました)

そして一周年にふさわしい、素晴らしい催事だとほめてくださいました。
私服の警備員と思いこんでいた私は、なんて見る目がないのでしょう。

それからです。こんな小さな会社の、私のようなものにも、丁寧に、いつも変わらず、親しく接してくださいました。
「日曜日なら(大手の)取引先が来ないので、もしよければ、日曜日に来なさい。」
そして私はノコノコと、相手の迷惑も顧みず、日曜日になると出かけてゆきました。

そして質問したものです。百貨店の摩訶不思議なこと、理解できないこと。世間の常識と違うと思われることなど・・・

けれどこのことは、ほとんどの人は知りません。
もちろん、売り場における私の切ない立場を、話すこともありませんでした。

会社を作って何年もの間、こんなはずじゃなかった・・・と何度も思いました。
かばってくれるものもない、一人ぼっちの孤独を感じながら、なぜ、こんな酷い環境で、働くはめになってしまったのか、後悔ばかりしていました。

もし、この方に出会うことがなければ、今の私はないように思います。
そごう倒産後、その心労で早くに亡くなられたK氏に、哀悼の意をささげます。

代表取締役会長
青木 みな子

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